日々是好日
女満別|博物館|網走監獄|北海道④
2015年01月05日 担当:通販事業部 田中
北海道の旅、最終日。
4日になると、年始のお休みも終わる場所もあり多少観光場所も開館してきます。
博物館の網走監獄に行ってきました。
博物館でもちょっと気分が。。
監獄なので楽しい気分ではなかったです。
監獄入ってすぐの場所の木にリスがいました。 自然があればどこにでも動物はいるんですね.
まったく知識がないので、博物館の看板に説明書きがあったのでその書かれていた内容を記載させて頂き、
紹介したいと思います。
【鏡橋】
●網走刑務所の外塀に沿って流れる網走川に架かる橋を、収容される時、出所の時必ず渡らなければなりません。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をぬぐいおとす目的で岸に渡るようにと」誰言うことなしに鏡橋と呼ばれるようになりました。
網走刑務所鏡橋は現在迄に4回に亘り架け替えが行なわれておりますが、この鏡橋は、京都五条の大橋に付けられている擬宝珠を模倣し作られた網走刑務所二代目鏡橋の面影を残し再現しています。
【看守控え室】●この部屋は、正門担当看守の控え室です。正門をくぐり抜けると、行刑区域に入りますので、不審な人を入れないように、看守が門前に立って勤務しています。しかし、悪天候の日や記録簿に記入するなどは、この部屋で執務しました。
【面会人待合室】
正門内には、受刑者に面会に来た者のための待合室が設けられていた。正門担当看守に、面会の申し込みをし許可を待ち、看守に先導され所内に入り、面会を行なった。面会については、厳しい規則があり、認められないこともあった。
【網走刑務所の旧庁舎】
本建築にみる紋章入りの破風をのせた正面車寄せ、押し上げ式の窓、木造下見張りは、明治10年前後、学校や官公庁の建築にみられた様式で、和洋折衷の「擬洋風建築」といわれています。この庁舎は明治42年の火災焼失後、同45年に再建されたもので、網走刑務所の管理棟として使用されていました。昭和63年10月、博物館網走監獄に移設保存されました。
【庁舎】
明治45年(1912年)に建てられ、昭和63年(1988年)まで網走刑務所の事務所として使っていた建物です。和洋折衷の斬新な建物の内部は、最高責任者の典獄室をはじめ、面会所、総務課、用度課、教育課、作業課と区切られ職員が職務遂行に向けて夜間も仕事をしていましたので、電燈が消えることなく灯っていたため、最果ての不夜城と呼ばれていました。
【典獄室】
刑務所の最高責任社の部屋です。最高責任者のことを監獄時代は典獄と呼んでいました。明治10年(1880年)代の典獄は監獄だけに限らず、警察署長・駅長・郵便局長等主要な役所のポストを兼務していたほどで、典獄の権力、地域に及ぼした影響力がわかります。この情景は、典獄が食事の検査をしているところです。食事は刑務所内部で作りますので配膳前に必ず検査を行います。
【接見室】
ここは、一般受刑者が面会する金網の仕切の入った接見室です。必ず看守の立会いのもと行なわれました。面会時間は最大で30分です。現在は金網の代わりに防弾ガラスを間仕切りに使うようになっています。
【面会所】
現在までに面会の規則は何度か変っていますが、ここでは1930年代の様子を再現しています。手前は、成績の良い受刑者が使うことを許された間仕切りのな い面会室です。普通、面会は奥にある金網の仕切りの入った部屋を使い必ず看守の立会いの元に行なわれていた。現在では金網の代わりに防弾ガラスを間仕切り になりました。新法の規則では、優秀な受刑者は月に7回まで面会が許されています。
【接見室】
ここは、規律違反がない行状のよい受刑者が面会を行なっていた接見室です。面会人と受刑者の間に仕切りがないので直接話すことができます。この情景は、昭和初期の面会の様子を再現しています。
【懲罰房】これは樺戸(現在の月形町)集治監の懲罰房です。この房の立ち並ぶ周囲は木塀でおおい、その中を闇堂といい、房は外から光が入らないようにつくられ「闇室」とよばれました。獄内規則を犯した受刑者が7昼夜重湯のみがあたえられて入居させられました。
【煉瓦造り独居房】
明治時代、監獄内の規則を守らない者には食事の量を減らし、一定の期間生活させる罰がありました。窓のない真っ暗な、この独居房での生活は受刑者にとって大変つらい生活でした。この煉瓦造り独居房は、明治末期に造られ、平成3年3月に博物館網走監獄に移設しました。
【浴場】
大勢の者が寝食を共にする刑務所では、皮膚病などが流行しやすく、そうした衛生面からも、浴場は欠かせない施設のひとつで且つ1日の作業終了後、受刑者にとって入浴は楽しいひと時でした。網走刑務所では「差湯方式」の浴場が明治42年の大火で焼失後、コンクリートの浴槽に蒸気で湯を沸かす当時としては、まことに近代的な浴場でした。